【歴史文化学科】 歴史文化学科の3回生が「歴史観光フィールドワーク」の授業で、「大仏鉄道」廃線跡を歩いてきました。6/4(土)

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2022.06.20

文学部 

【歴史文化学科】 歴史文化学科の3回生が「歴史観光フィールドワーク」の授業で、「大仏鉄道」廃線跡を歩いてきました。6/4(土)

本年度からスタートした新科目「歴史観光フィールドワーク」の第2回見学授業として、京都府木津川市の「大仏鉄道」廃線跡を歩いてきました。

「大仏鉄道」の正式名称は「関西鉄道大仏線」。加茂駅(現・京都府木津川市)から奈良駅までの9.9km、1898(明治31)年から1907(明治40)年まで、わずか9年間しか営業しておらず、「幻の鉄道」と呼ばれています。

地元の鉄道愛好家やボランティアの方々の尽力もあり、近年、近代遺産としての再評価がなされ、観光資源としての活用が積極的に進められています。

当日は、JR関西本線(大和路線)の加茂駅に10時に集合しました。

最初の見学地は、「ランプ小屋」です。

所有者の方の許可を得て、正面側(線路側)から見学することができました。

加茂駅の開業当時から残る唯一の建物で、灯火用の燃料(石油)が保管されていたことからこのように呼ばれています。

「オランダ積み」のレンガが非常に良好な状態で維持されています。

次の見学地は、「旧加茂駅跨線橋支柱」です。

支柱の根元には「尾張熱田 鐡道車輛製造所製造」と刻まれた銘板が見られます。

大仏鉄道を敷設した「関西鉄道」は、1888(明治21)年3月1日に設立された、三重県四日市市を本社とする鉄道会社だったので、愛知県の工場で製造されたことがわかります。

加茂駅のホームにも同様な支柱が残っています(下の写真中央)。

バスで移動したのち、「観音寺橋台」 に向かいます。

手前が、「大仏鉄道」時代の「観音寺橋台」です。すぐ向こう側にはJR関西本線の橋台があり、走行中の電車(奈良行き)が写っています。

石造りの橋台が良好な状態で保存されています(JR関西本線側から撮影)。

「観音寺橋台」の西側には、「大仏鉄道」の築堤が良好な状態で残っていますが、JR関西本線に近接することもあり、立ち入りなどは認められていません。

「観音寺橋台」のすぐ西側に位置している橋台跡で、「観音寺小橋台」と呼称されています。

金網ごしに中を覗きます。

南西方向に歩き、「鹿背山橋台」に到着です。

廃線めぐりの書籍の表紙写真として掲載されたこともある、廃線ファンには有名なスポットです。

今歩いてきた方向を振り返ると(下の写真の右側)、「観音寺橋台」付近と同様に、「大仏鉄道」の築堤跡が良好な状態で残っていることがわかります。

次の目的地、「梶ヶ谷隧道」を目指します。かなり日差しが強く、次第に体力を消耗していきます...。

「梶ヶ谷隧道」に到着しました。正面から写した写真です。

 

内部を通り抜けることができます。下部は石造り、上部はレンガ造りであることがわかります。

反対側から撮影した写真です。

坑口両側のレンガについては、「イギリス積み」になっています。

トンネル内部の天井部を見上げると、「長手積み」工法であることが良くわかります。遺存状況は非常に良好です。

「大仏鉄道」としての営業が停止されたのちも、この区間は、当該地区の道路として利用されていたため、現在まで「築堤」が残されたと考えられます。

向かって右の方に進んでいくと、「赤橋」と呼称される橋台が見えてきます。

現在でも、上には生活道路が通っています。

橋台のコーナー(隅部)は、花崗岩を「算木積み」にしており、レンガは「イギリス積み」になっています。

橋台の間から上部を見上げたところです。石製の桁材と木製の桁材を見ることができます。

なお、この「梶ヶ谷隧道」および「赤橋」周辺の「築堤」については、1995年、UR(独立行政法人 都市再生機構)による大規模宅地開発に伴う道路拡張計画にかかることになり、URでは、「撤去」ないし「一部移設」を検討していましたが、地元市民団体である「大仏鉄道研究会」や「鹿背山の大仏鉄道遺産に親しむ会」などが鉄道遺構の保存を強く求めたため、URより、この部分の前後約300mについて、新設道路を迂回させる代替案が提示され、当該地区の鉄道遺構が保存されることになりました。

すぐ近くの大仏鉄道公園(城山台公園)で昼食をとりました。昼食後、早々に出発です。

次の目的地、「松谷川隧道」を目指します。

「松谷川隧道」は金網で閉鎖されており、内部に入ることはできません。

下を流れる用水路に蓋をして、道路として利用されていたようですが、反対側の坑口については、道路拡張の際に、埋め立てられてしまっています。

「松谷川隧道」付近も「大仏鉄道」の「築堤」が良好に遺存しています。

「築堤」の反対側については、前記の通り、道路の路盤として埋め立てられてしまっており、こちら側のみ、往時の様子を留めています。

最後の目的地は、「鹿川隧道」です。

ここまで見学してきた「大仏鉄道」の遺構は、すべて京都府木津川市に所在していますが、この「鹿川隧道」のみ、奈良県奈良市に所在しています。

実は、この「鹿川隧道」については見学ルートが整備されておらず、道路脇の説明板には「遺構は現在地の左下にあり、ここからは残念ながら見ることができません」、「鹿川隧道への見学用の道は設置されておりません」と記されているのみです。

用水路沿いの小道を進んでいきます。

右側の小さいトンネルが「鹿川隧道」です。現在も農業用水として機能しています。

左側は新たに設置された用水路のトンネルです。

本来は、用水部分を暗渠にして、通行可能であったと思われます。

本日の見学行程は全て終了。近くのバス停から奈良交通バスに乗車し、終点のJR奈良駅西口で下車。14時30分頃、解散しました。

たいへん暑いなかでの踏査となりましたが、100年以上も前の、大変貴重な鉄道遺構を踏査することができました。各遺構の遺存状況はいずれも良好でしたが、その活用状況は遺構ごとに様々で、歴史遺産・観光資産としての活用方法について色々と考えさせられた一日でした。

なお、ここ数年、話題になっている「高輪築堤」は、東京都品川駅近くの再開発地区で確認された、日本最初の鉄道(新橋―横浜間)に伴う遺構ですが、近代産業遺産としての重要性にもかかわらず、最終的には、全体約1300mのうち、120m分については現地保存、30m分については移築保存、残りの部分は現地調査のうえ取り壊されることになりました。遺構の規模や所在地を取り巻く状況など、今回の「大仏鉄道」と同列に扱うことはできませんが、参考事例として紹介しておきたいと思います。

暑い一日でしたが、参加した学生の皆さんには、今回の鉄道遺構踏査を通じて、近代鉄道遺産の現状および様々な可能性や活用方法について、熟考する機会にしてもらえれば幸いです。

(文責:IT)

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